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続 Western Wall

起きて宿で15シェケルの朝食を食べ、 ひと心地ついてから Ramparts Walk の続きを行う。 Jaffa Gate に行くと、しつこい「自称ガイド」が寄ってくる。 無視していると、つきまとって、 「私はあなたに話しをしているのだ。どうして答えない。 あなたは私に答えなければいけない」とか、 自分勝手の無茶苦茶な理屈を展開してくる。 無視してツーリストインフォメーションに入り、 ベツレヘム行きのバスの乗り方を聞く。 Damascus Gate からアラブバス22番との事であった。 Jaffa Gate から Ramparts Walk の入口へ。 城壁の上から見る旧市街は、なかなか良い。 しかし、それにしても暑い。 私は日焼けを防ぐために SPF130 の Sunscreen を塗り、 防止に長袖に長ズボン、そして手袋といういでたちなので暑い。
ただし、これでも長袖を来ている方が暑さが和らぐ。 日差しが強すぎるので、肌を出して発汗作用で体温が下がるよりも、 日光が直接腕に当たる事により腕が熱くなる方が上回るため、 服を着ている方が日差しが遮られる分、楽である。
目もチカチカしてくる。 時折写真を撮ったりしながら歩くが、岩がツルツルして滑べりやすい。 これで雨の日、あるいは、雨上がりだったら危険だなと思う。

Ramparts Walk も全て歩き終えると、オリーブ山の近くに来るので、 必然的に足はそちらに向かう。 あまり道は判らないが、ツアーバスの行く方向に歩いていったら、 すぐに万民教会の横に庭園とオリーブの木があった。 入って一休みする。

Crazy tourist

すると、自称ガイドがやってくる。 わざわざ「私はガイドだ」と言う。ウソをつけ。 案内してやろうかと言うので、断わる。 「私はゲッセマネの園に行きたいだけだ」と言うと、 それはここから遠い、タクシーを使えという。 見ると、仲間のタクシー運転手が道路に座って客待ちをしている。 しかし、年輩の人間ならともかく、 Jaffa Gate からここまで歩いてくる私にすれば、 どう考えてもタクシーを使う距離ではない。 断わって、「私は、ゲッセマネの園に行きたいんだ」と言う。 ガイドは、あっちだと言うので、 「サンキュー」と言ってきびすを返して歩き出すと付いてくる。 「金は払わないぞ」と言っても平然としている。 「もうすぐ昼の礼拝のために閉まる。急げ」と言って、 男が連れていった所は、ゲッセマネの園ではなく、処女マリアの墓教会だった。 各宗派が所有する銀のランプが幾つもぶら下がっている。 ゲッ、こんな物は見たくない。 何が、「ゲッセマネの園はここだ」だ。大嘘付きめ。 「私は、見ないぞ!」と言うと、何でだとびっくりする。 「ハッ、 クレイジー ツーリスト!」と、男は馬鹿にした目で私を見る。 「わざわざここまで来て、何にも見たくない。金は全然払わない」と言って、 自分の頭を指さし、クルクルパーのような仕草をして男は引き返した。 私に付いてきたインチキ"ガイド"は、仲間のタクシー運転手の所に行って、 「どうだった?」「あんな奴は知らないよ」とでも会話をしている模様。

万民教会の横の庭に戻る。 ガイドブックを見た。やはり、ゲッセマネの園はここだった。 ゲッセマネの園にたどり付いたばかりの旅行者に、 「ゲッセマネの園はこから遠いからタクシーに乗れ」と言うのだから、 こういう、金のためなら平気で嘘をつける人間には嫌気がさす。

もっとも、唾すべきセコい野郎ではあるが、 金のために従業員や、夫や、子供に保険金を掛けて殺す事件が後を絶たず、 しかも保険会社まで「契約さえ取れれば」と不自然な内容でも喜んで引き受けるというどこかの国ほどひどいとは言えない。 おそらく、アラブの地域では保険金殺人などは無いだろう。 人間の命の値段が安いから。
ガイドブックを見れば判る事なのに、気が付かない私もドジだが、ううん、、、 ここの庭のどこにも「ゲッセマネの園」とは書いていないんだよね〜。

アメリカ人とおぼしきツアー団体が来て、 「これが科学的に2000年前の物と証明されたオリーブの木か」と語らっている。 自称"ガイド"のおかげで味わった嫌な気分もこれで打ち消し。 イエスが実際にここで祈りをささげられたかはともかく、 オリーブ山のふもとのこの近辺が、ゲッセマネの園であった事は疑いが無く、 またオリーブの木は千年ほど生きる事もあると聞いているが、 この園の何本かのオリーブは2000年前の物と特定されている。 だから、イエスが祈りをささげたおよそ2000年前のこのゲッセマネの地で、 2000年前のオリーブは今も健在なんだ。

ツアー客と違って自分の思い通りに行動できる私は、ここに腰をかけ、 オリーブの木と、ここから見える神殿の城壁を見ながら聖書を読んだ。

それにしても、オリーブ山って、本当に危なっかしい所だな、 まるでイカサマガイドの縄張りみたいな所だと思ったので、 頂上に1人で登るのはトラブルの元だと判断し、旧市街に戻る事にした。 庭を出ると、さっきの自称ガイドとその仲間のいた所にパトカーが停まっている。 たまたまパトロールに来たようであるが、これで付きまとわれずに済むとばかり、 さっさと戻る事にする。

#どうせならいつもパトロールしてくれるとオリーブ山の治安も良くなるのだが。

ベツレヘム 失敗

シオンゲートに戻って Via Dolorosa (悲しみの道) を歩く。 ここはイエスが処刑される時、ゴルゴダの丘まで歩いたとされる道で、 イスラエル政府観光局のパンフレットによると 地中に埋もれていたヘロデ時代の石が再利用されて道路が整備され、 今日巡礼者はイエスの時代の石の上を歩く事ができるとある。
もっとも、 その貴重なヘロデ時代の石畳の上に、 気温が高いせいかタイヤのゴムの痕が幾重にもこびり付いているのは無惨である。 印象としては、とにかくみやげ物屋の多い通り。
宿は Via Dolorosa の終わり近くにあるので、 ちょっと戻って一休みした後で、 ダマスカスゲートからアラブバスの乗り場に行き、22番を探していると、 「ベツレヘムに行くのか? だったら、これだ」と教えてくれた。 なぜか21番のバスだった。 アラブバスは、ベツレヘムまで2シェケルと安い。エゲッドバスの半額ぐらいだ。 期待していなかった割には内装も洒落ていて、バスも新しい車両だ。 エアコンは無くて暑いが、 どうせ外を歩いていればもっと暑いので、それに慣れていればバスの中も耐えられる。 座席は・・・ちょっと狭いな。 聞くとベツレヘムは終点との事で、安心して乗っていられる。

さて、バスは終点に着いた。 降りてガイドブックを見るや否や、「タクシー?」などと声を掛けられる。 ガイドにはうんざりしているので、パッと歩き出す。 バス停からちょっと離れた所でガイドブックの地図を見る。 しかし、どうも地図と実際がまるで違っているように思えてならない。 違う所でバスを降りたという事は無いと思うのだが、、、
そうしていると、またパレスチナ青年から声を掛けられびっくりするが、 彼は別にガイドではなく、困っている旅行者にに親切で声をかけたようだ。 どうも「ガイド恐怖症」にかかったらしい。 「ベツレヘムはどこですか」と聞くと、彼は笑って手を広げ、 「ここがベツレヘムだよ」との返事。 地図を見せ、今どこに居るのかを尋ね、 ベツレヘムの博物館を目指す。しかし、道路の名前が違っている。 メイン道路が Yasu Arafat 通りとなっている。 他の道路の名前も変わっている。 それで、いったい今、どこを歩いているのか判らなくなってしまい、 散々歩いた挙げ句、再度地元の人に道を聞いた結果、元に戻る事に。 まず、地図にバス停の印が書かれていないので、 ベツレヘムに到着した時点で、 いったいベツレヘムのどこに到着したのかチンプンカンプン。 しかも道路の名前が大幅に変わってしまっているとあって、 全然見当違いの所を歩いているようだ。 しかし、まあ、せっかく教えてくれた青年を恨むわけにもいくまい。

あてども無くただひたすら歩き回っているここベツレヘムの街は、 どこもかしこもパレスチナ旗がひるがえっている。 これ見よがしに、 「ここはイスラエルじゃない。パレスチナだ」と叫んでいるようである。 (まれにイスラエル国旗も見かける)

「それにしても」と私は思った。 「いったい、私は何のためにベツレヘムに来たのだろう。 『主イエスはここで処女マリアから生まれたり』とウソくさいラテン語の碑文と、 各宗派が所有する銀のランプがぶら下がった教会に入って、 ありがたがってもしょうがない。」 しかし、そうなると、ベツレヘムはこれといって見る物が見当たらない。 それで、 ベツレヘム博物館(パレスチナの工芸・衣装・19世紀の民家を展示しているとある)を目指していたわけだが、、、 暑い中を2時間歩いた挙げ句、博物館は見つからず、 「結局、イエスがお生まれになったベツレヘムの地勢はこうなのか。 羊飼い達がいたユダの荒野とは、今目にしている、この様な丘だったのだろうか」 といった程度で、疲れ果てて博物館は断念してエルサレムに帰る事にした。
しかし、良くした物で、行きに来た時のバス停もどこだか判らないのである。 地図がアテにならないのか、通りの名前がアテにならないのか、 私がアテにならないのかわからないが、ここベツレヘムでは終始「私はどこ?」 状態であった。 これだとエルサレムに帰れないので、 カフェテリアで話しをしていた英語のできそうな()インテリ風の若者 (彼は被っている帽子から一見してユダヤ教徒だと判る) にバス停を聞いた。 彼は親切にも正しい行き先の乗り合いバス(シェルート)を教えてくれ、 しかも、私がよく把握できていないと判断し、 バスを止めて「これに乗ればいい」と教えてくれた。 シェルートはバスより速い。値段は3シェケルだった。

パレスチナ自治区にユダヤ教徒の青年がいて、 しかもパレスチナ人と親しそうにカフェテリアで一緒に休憩している。 ベツレヘムには右も左も判らない観光客が私以外にも時折来るのかもしれない。
結局、私のベツレヘム訪問は「5シェケル損の くたびれ儲け」であった。 何となく、「あっ、エルサレムからベツレヘムならすぐ近くだ。 バスで2シェケル? 安いじゃん」と安易に行くだけ行って、 着いてから「さて、どこを見ればいいんだっけ?」とか、 そんな事では全然ダメなのである。

ある男の死

シェルートがエルサレムの Jaffa 通りに来た。 パトカーがサイレンを鳴らし、現場に急行している。 良くした物で、エルサレムの旧市街はアラブ人ばかりなので、 道行くドライバー達はイスラエルの警察の車などには道を譲ったりはしない。 何となく、 敵対的な空気が道路にみなぎっているのがシェルートの中に座っていても感じられる。 「こっちは急いでいるんだ!」と怒りをあらわにし、 クラクションを鳴らすパトカー。 何だろう? と思っているうちに、 ダマスカスゲートの外のアラブバスのターミナルに来た。 すると、道路に男が横たわっている。 頭にターバンを巻いているので、アラブ系の中年男性と思われる。 体には毛布が掛けられていた状態で、 男は横断歩道の上にあお向けに寝たままピクリとも動かない。 声も上げていない。 これは − 死んでいるみたいだな − と思った。

この男はどういう人生を送ってきたんだろう? こんな風に、道路の上で不意に生涯を終えるなんて、可哀そうだなと思った。 ただ1つ判るのは、イスラエル軍とパレスチナ人が衝突して死者が出たなら、 世界中に大報道される。しかし交通事故で死んだら、ニュースにもならない。

Lonelyplanet によると、イスラエルでは建国以来、 18500 人が交通事故で死んだ。 これは3度の中東戦争で死んだイスラエル人の合計を上回る、とある
それよりびっくりしたのは、 周囲の人間があまり気に留めていない様に思える事である。 まるで、「あ、死んだか」程度の扱いでる。
イスラム教徒は運命論者なので、 彼らの解釈ではこの男が横断歩道で生涯を終えるのはアッラーの意志だった、 そう決まっていたのだという事になる。 よってアラブ社会では危険防止のために策を講じるという事はあまり無い。 無謀な運転をして事故を起こして死んでもアッラーの意志、 すなわち不可抗力だったとされ、自分で責任を取るという概念が希薄である。
難しい所だな・・・イスラエルに限った事ではないが、 海外旅行では、殺される事を心配するより、車に気を付けた方が良さそうである。

さて、ダマスカスゲートから宿は歩いてすぐなので、 疲れたので部屋に戻り、水道水をガブ飲みして少し横になる。

アルメニアン・クォーター

もう午後6時に近い。まだ外は明るいが、博物館等はもう開いていない時間だ。 しかし休んでばかりではもったいないので、アルメニア人地区を散策に行く。 アルメニアは、ローマ帝国よりも早く、 つまり世界の歴史上最初にキリスト教を国教と定めた関係で、 アルメニア教会が世界に占めるキリスト教徒の割合こそ低いものの、 歴史の点ではカトリックなどより遥かに古い。 そのため、聖都エルサレムの旧市街の一角を占めるに至るのである。 (正教会はアルメニア教会の次に古い)

さて、アルメニア人地区も既に大概は閉まっていて、人通りもまばらであるが、、、 アルメニア人虐殺の歴史を記した地図のポスターが私の目を引いた。 アルメニア人の虐殺という歴史的事実については、 一応知ってはいたが、150万人も犠牲になった事は知らなかった。 (ホロコーストの犠牲になったユダヤ人が600万なので、 決してあなどれない数である事が判る) びっくりしてポスターを見ていると、 タクシーの運転手が近付いてきて、 (思わず警戒してしまったが) 「このポスターが気になるのかい。 これは無料で貰える。 先日は日本人女性のツアーリーダーがアルメニア博物館で虐殺の事を知り、 心を痛めた彼女はアルメニア語を習いたいと言っていた」と言う。 とにかく、自称ガイドやボッタクリタクシーではないので安心したが、 「これは、日を改めて来る必要があるな」と思った。

シオンゲートの土産屋

アルメニアン・クォーターを歩いて、左に曲がるとシオンゲートに来る。 ここの家にポスターが貼ってある。

我々は決してアルメニア人の虐殺を忘れない
決して
決して
決して

別のポスターにはこうあって、胸が痛む。

今もクルド人に対する虐殺が行われている

「今日も病院に銃弾の雨が降る」に記されている 近年におけるトルコのクルド人に対する態度を読んだ限りでは、 このポスターの主張する事は嘘ではなさそうだ。

シオンゲートの近くには土産屋がある。 旧市街でも、外れの方にあるせいか、なぜかここは値段が付いている。 この辺は観光客も少ないのだろうか。 とにかく、相場が判るのでありがたい。

宿に戻り、3Fのカフェテリアに座り、窓から神殿域を眺めつつ、 ラジオを聞いたり旅行記を書いたりしていたら、 手の空いたスタッフが来て、日本語を習いたいとの事で、相手をする事になった。 宿泊客の中に日本人は1人も居なかったので、 ここには日本人は来るのかと聞くと、来るとの事。 「こんにちは」とか、「おはようございます」とか、 一生懸命覚えていた。挨拶だけでも日本語で、という心掛けは立派である。 (もっとも、逆に、挨拶以上は無理なんだが、、、)
私が神殿域を見ていると、 「君は岩のドームに行ったかい? あそこは、最も美しいモスクだよ」と、 目をキラキラ輝かせて熱っぽく語りかける。 やはり、ここは基本的にイスラム教徒向けのホテルだとガイドブックにある通りである。 カフェテリアに東洋人の若者3人が来たので、 声をかけたら韓国人との事。 3人は別々に旅行していたが、エルサレムで一緒になったらしい。 彼らは今日はベツレヘムに行って、 キリストの生誕の場所だとされる地点に手をかざして、 何か御利役があるかもしれないと思い興奮したとの事。 う〜む、、、人、信じる所はそれぞれである。
3人のうち1人はアルコール飲料を持ち込んでいて、 カフェテリアで飲んでいたので、 ホテルの支配人から「ここはアルコールは許されていない」と注意を受ける。 彼らはここの宿泊客ではなく、タバスコ・ホステル客らしい。 タバスコと言えば、 「飲めや歌えのドンチャンホステル」という先入観をガイドブックから受けていたのだが、、、 うるさくて眠れないのでは旅行に差し障るので、 私はそういう所は避けるようにしている。 もし飲んで世ふかししたければ、日本でやれば充分である。 私は決して安くはない費用を払ってエルサレムまで来ているのだから、 さっさと寝て、さっさと起きて、朝から行動するのである。

部屋に戻って気がついた。 事前に立てていた旅行計画なんだが、 重大なミスがあった。 6月17日は安息日に差しかかるので計画に実現不可能な部分があり、 変更が不可避になった。


脚注: ヘブライ語は国際的通用度が低いし、 イスラエル人は伝統的に教育熱心なので大抵の人は英語がうまい。 反面、アラビア語は近隣アラブ諸国での通用度が高いので、 パレスチナ人は、商売等で必要としない限り、 英語まで必要なケースは少ないだろうと思った。 (本文に戻る)

Last modified Date: 2000/09/27 10:15:59


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