メモ:38章

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38章 道の途中の曲がり角

The Bend in the Road
  1. [リーダーズ+] 。"It is a long road that has no turning." いつまでも不幸が続くことはない、の意味。 不幸とは銀行の破産とマシューの死、大学進学の断念、マリラの視力が悪くなること。
  2. アン・シリーズの章のタイトルで、他にも曲がり角に相当するものがある( AAJ26章 "Around the Bend", AIs(J):11章 "The Round of Life")。 これらは人生の転機を意味しているので、ここでも上記の諺の意味でなく、 アンに転機が訪れたという意味の方が適しているのかもしれない。
曲がり角には、(1)先の見えない未来と、(2)何があるかわからないわくわくする予感の2通りの見方ができる。 アンは(1)から(2)へと見方を変えていったので、初めから(2)だったわけではない。
oculist
occultistに似ているが...。神秘的な予言者に滅びを告げられる? ただしそれは真の未来ではないかもしれず、偽りの予言者・魔術師なのかもしれない。
Anne, just think of it!
AGG9章で、アンがレイチェルに赤い髪のことでなじられる時に、アンがマリラに訴えたのとちょうど逆。 今度は立場が逆転して、マリラがアンに訴えている。
If you are careful you won't lose your sight altogether;
単に掛け声としての楽観論に過ぎず、説得力がなくて弱々しい。 現実の前では単なる楽観では足りない→行動によって実証することが必要→その後のアンの行動、 と変わっていったのかもしれない。
There were tears in her eyes in defiance of the oculist's prohibition
マリラにとっての最終局面である。泣いて失明しようが、もうどうでも良くなっている。
Mrs. Lynde advises me to sell the farm and board somewhere -- with her I suppose.
後には逆にレイチェルがマリラの家に下宿することになる。 レイチェルも大変な目に会うわけであるが、以前言ったことが後にその通りになったり( AGG(J):37章 のアラン夫人の言葉)、その逆になったり( AGG(J):37章 のレイチェルの下宿発言 )、あるいは同じようなことが繰り返されたり( AA(J):12章 のフィリップス先生とシャーリー先生の罰)というのは、何度かアン・シリーズに出てきている。 必ずしも全てが始めから伏線が張られていたとは思えないので、後からLMMがうまく利用したのだろう。 このことから、人生の中の繰り返しや予兆・予言にLMMの意識が向いていたと結論づけて良いだろう。 AGGの中に埋め込まれた予告型のシンボル群の存在は、こういうLMMの作風から間接的に証拠付けられると思う。
It[Green Gables] won't bring much--it's small and the buildings are old.
グリーン・ゲイブルズが意味するのは建物だけでなく、 隣接した果樹園や畑なども含む。たぶん隣り合っていない牛の放牧地(恋人小径の先にある)は別物だろう。 Orchard Slopeも同じで、単に果樹園の坂にある家ではなく、果樹園と坂が特徴の、家屋敷と土地一切を含む。 つまり、グリーン・ゲイブルズのアンとは、緑の切妻屋根の家に住むアンではなく、 グリーン・ゲイブルズという小さいながらも独立した王国に住むアンの意味。気分はプチ・プリンセス?
I suppose you'll manage somehow
休みで帰ってきても、ダイアナの家に泊まるとか、やりようはあるだろうということ?
Not going to Redmond!
自分がどんなに大変な目にあっても、アンだけは大学に送るつもりでいたか、 あるいは、アンがいずれ必ず自分を離れていかなくてはいけないならば、 ここでアンにすがってこの素晴らしいチャンスを潰したりはとてもできないということだろう。 いずれにしても、マリラにとってアンが大学に行くのが極めて重要だったし、 今後の自分の人生を考えるにあたって前提としていたことなので、 アンが大学に行かないと言い出して本当にびっくりした。 マリラにしてみれば、それこそ"fiddlestick"で"nonsense"な話であり、 アンは"addlepated"だと思ったのではないだろうか。 この後でアンがNonsense!と言ったのは、マリラの言葉を先取りしたのかもしれない。
And we'll be real cozy and happy here together, you and I.
これははおとぎ話の「めでたしめでたし」のイメージなのか? グリム童話のHansel and Gretelでは"they lived together in perfect happiness."(幸せに暮らしましたとさ)、 Sleeping Beautyでは"they lived contented to the end of their days."(満ち足りた生涯を暮らしましたとさ)で終わる [19C. German Stories]
AGGの中に現われるlive togetherは、 AGG(J):30章 の"we will never marry but be nice old maids and live together forever." (二人とも結婚なんかしないで、素敵なオールド・ミスになって一緒にいつまでも暮らすことにしよう), liveとhappyの組み合わせだと、 AGG(J):5章 の"I lived it over in happy dreams for years." (それから何年も、その日を過ごす夢を繰り返した見たの。)、 AGG(J):8章 の"we would have lived there happy for ever after." (あたし達はそれからずっとそこで幸せに暮らすのよ。)。 30章は例外だが、天国のような夢の世界で過ごす様子。
AGGの中に現われるcontentedは、 AGG(J):1章 の"they seem contented enough"(あの二人は慣れちゃったんだね)と、 AGG(J):20章 の"I'll b-b-be cont-t-tented with c-c-commonplace places after this." (あた、あたしもう、か、か、構わない、へ、へ、平凡なところでも。) の2つ。
contentは AGG(J):31章 の"She walked, rowed, berried, and dreamed to her heart's content" (散歩して、舟を漕いで、果実を摘んだり夢を見たり、心ゆくまで夏を満喫した)、 AGG(J):33章 の"she could have laughed and chattered to her heart's content" (心ゆくまで笑ったりおしゃべりしている)と、 "I'm quite content to be Anne of Green Gables" (あたしはグリーン・ゲイブルズのアンで充分)、 AGG(J):34章 の"Jane, Ruby, Josie, Charlie, and Moody Spurgeon, ..., were content to take up the Second Class work" (ジェーンとルビー、ジョージー、チャーリーにムーディー・スパージョンは、...、2級クラスで満足していた。)、 AGG(J):38章 の"Anne sat long at her window that night companioned by a glad content." (その夜、アンは長いこと窓辺に座っていた。足るを知ることが嬉しかった。)。 どれも現世での満足を意味する。
おとぎ話では、幸せだったりこの世に満足している人達は決して取り上げられることはない。 ほとんどが不遇の生涯を送った人が最後に幸せのゴールに至るという過程を語るわけで、 いかに幸福が”終わった”状態であるかと、現在不遇であっても未来の幸福を目指す激動の人生こそ望ましい、 という教訓を教えてくれる。 AGGは、アンがこの世と折りあいをつけて一種の満足を得たシーンで終わるが、 AGGの後日談であるアヴォンリーのアンでは相変わらず毎日がドラマであり、 ごくたまに小さな満足を見つける程度である。 AGG後もアン・シャーリーは”終わって”いないし、死ぬまで”終わらない”のだろう。
AGGを含めLMMの作品は、めでたしめでたしで終わるおとぎ話の形式に従っている。 つまりどう終わるかは問題ではなく、登場人物が何を考え、どう行動してきたかの方が重要だし、 ずっと面白いのである。 アン・シャーリーがギルバートと仲良くなろうが、学校で優秀な成績を修めようが、 結婚して幸せになろうが、そんなことは問題ではない。 そうなるに至るまでの努力や失敗や苦しみや希望こそ読者の共感を呼ぶのである。 蛇足でした。
But I can't let you sacrifice yourself so for me.
LMM自身はアンが自己犠牲を選んだと考えていた。 例えば、AGGでマシューの死を描いたことに関して、
"But when I wrote it I thought he must die, that there might be a necessity for self-sacrifice on Anne's part"
[Alpine Path,p.75] (元は [日記(E)2,p.44, Jan. 27, 1911] )と言っている。 マリラの性格の一部を担うマクニールおばあちゃんが亡くなるまで一緒に暮らしたことも、 LMMは自己犠牲と考えていたと推測して良いと思う。
一方、アンがグリーン・ゲイブルズに残ったことに関して、 [Annotated AGG,p.28] では逆の見方をしていて、自己犠牲を選ばないとしている(台詞の中でもアンは犠牲ではないと言っている)。 もっとはっきり言うと、アンは自分が居て良い場所を確保するために、 マリラとグリーン・ゲイブルズを望んだ、ということになるだろう。 たぶんこの見方は、LMMや当時の社会が望ましいとしたものとは違うのだろうが、 AGGという作品(あるいはアンのキャラクター)自身には、こういう読み方を許す余地がある。 20世紀末の読者には、自己犠牲という19世紀的読み方より、 そのほうがずっと分かりやすいのではないだろうか。
Nonsense!
これは今までマリラの台詞だった。立場の逆転が台詞を逆転させた。
Neither did good Mrs. Lynde.
レイチェルはアラン夫人と違った意見から、アンがアヴォンリーに残ることに賛成した。 まるで違った二人なのだが、AGGの中では、自分の思惑とは別に、 結果的に良い決断をもたらす人達が何度か登場する。このレイチェルもそうだし、 AGG(J):6章 のピーター・ブリュエット夫人、スペンサー夫人もその仲間。 LMMは、こういった表に登場してきにくい人達も丁寧に扱っていて、 たぶん人には見えない神の手としての役割を担わせているのだろうと思う。 レイチェルもここでは良い知らせをもたらす使者の役目を担っている。
white moths
不明。 mothは遊びまわる人 [ジーニアス英和] の意味だが、ここでは関係なさそう。
mint
花言葉は「美徳」。LMMの観点ではアンの自己犠牲なので、美徳は合っている。
pink and yellow hollyhocks
タチアオイ。花言葉は「多産」。子供の多いレイチェルに合っている。 pinkは元気だから。yellowはセンセーション好きだから。
It's a great blessing not to be fat, Marilla.
この前で出てきた"You blessed girl!"と関連するのだろうか。 fatの意味が分からないが、マリラを祝福する言葉のような気がする。 fatはfate/fatal(運命, 非運, マリラが一人でいなくて済むこと?)か何かかもしれない。
I don't think I ought to let Gilbert make such a sacrifice for--for me.
この文、あるいは"I don't feel that I ought to take it"は、 次のレイチェルの"I guess you can't prevent him now."と対になっているが、 この章の前半のマリラとアンの会話、 "I don't feel as if I ought to let you give it up,", "But you can't prevent me." と似た言い方をしている。 マリラ対アンとアン対ギルバートの関係に同じ構造を持たせるためこうしたのか、 単にLMMが引きずられて同じ書き方をしただけなのか分からなかった。 もし前者なら、アンから見ると、自分をめぐる感謝される立場と感謝する立場が鏡に写ったよう見えるわけで、 自分の立場を客観的に評価できるようになった。これでギルバートとの和解もしやすくなったのか?
Josie was the last of them
AAではアンソニー・パイが登場するので、残念ながら最後ではなかった。
Anne ran down the clover slope like a deer
鹿の例えは2回目。
with its poplars whose rustle was like low, friendly speech
ポプラの花言葉は「悲嘆」。マシューのお墓近くにあるのはふさわしい。
it was past sunset and all Avonlea lay before her in a dreamlike afterlight
AGG(J):2章 と同じで、アヴォンリーの全体像を見せている。AGGの最初と最後で、 アヴォンリーという小さな舞台の全体像を見せたのだろうか?
"a haunt of ancient peace."
Alfred Tennyson, 'The Palace of Art,' l. 88 [Use of Quot. & Allusion,p.19] [Annotated AGG,p.394]
まるで時間が止まったような桃源郷の光景である。峠を越えて急に目の前に農村風景が広がったような感じ。
[Alpine Path,p.11] でもPEIの説明として使われている。
honey-sweet fields of clover
cloverは豊穣のシンボル [ジーニアス英和] 。live in cloverで贅沢にのんびり暮らす。 honeyは神の食物 [ジーニアス英和] 。これも桃源郷の光景を表している。
Home lights twinkled out
人をさそう人家の明り。このイメージは何度も出てくる。
"Dear old world," she murmured, "you are very lovely, and I am glad to be alive in you."
AGG(J):7章 の、アンが望んだ祈りに似ている。 また、AGG最後に現われる詩、R. ブラウニングの"Pippa's Song"と同じ世界観でもある。 ここから後、同様な意味のことが言葉を代えて繰り返される。
What a stubborn little goose I was
頑固なガチョウは、騒がしく鳴く多弁な知恵の鳥 [西洋シンボル事典] 。アンがガチョウなのはこれで確定。 Green Gables も参照。 AGG(J):34章 でも、ジェーンと一緒にお馬鹿なガチョウ(goosey)だった。
We haven't been--
good friendsと続くのだろうが、はっきり言わなかったのは、マリラのgoodには含みがあるから。 それに対してgood enemiesは、同じgoodでも普通の意味にしてしまった。この後でならアンは安心して good friendsが使えるようになる。
The wind purred softly in the cherry boughs, and the mint breaths came up to her.
サクランボの枝を抜ける風が喉を鳴らすのは、 アン(cherry, wind)が猫のように喉を鳴らして満足していること、 ミントの花言葉は「美徳」 [ジーニアス英和] だが、それよりは清々しい香りで満足感を表しているような気もする。 このwindは、 AGG(J):10章 の風になりたかったアンと同じ発想かもしれない。
The joy of sincere work and worthy aspiration and congenial friendship
[Alpine Path] のLMMの作家としての展望と同じ。天才ではない、限れた才能しかないかもしれない、 しかし自分の選んだ道で諦めずに努力するという思い。
God's in his heaven, all's right with the world
Robert Browning, "Pippa Passes" (1841), Part i, "Morning", ll.221-228 から引用 [Use of Quot. & Allusion,p.19] [松本訳,pp 514-515] [Annotated AGG,p.396, pp 461-462] [Familiar Quot. Archive] 。 絹織物工場で働く娘Pippa(Philippa)の一日、朝起きて夜眠るまでを描く作品。 Pippaが歌いながら道を通りかかると、それを聞いた人たちが影響を受けるという話。 [Works of R. Browning,p.224]
The year's at the spring,
And day's at the morn;
Morning's at seven;
The hill-side's dew-pearled;
The lark's on the wing;
The snail's on the thorn:
God's in his heaven --
All's right with the world!
季節は春を迎え、
今日も朝が訪れた。
朝は七時を回ったばかり。
真珠の露の かの山肌、
翼に乗った あのヒバリ、
棘の上の このカタツムリ、
そう、神が天にあるのだ--
この世の全てが好ましい!
この部分は"Pippa's Song"と呼ばれている。
"All's right with the world!"は上田敏により「すべて世は事も無し」と訳されたが、 AGGの中では「事も無し」ではなく、 37-38章では今までの幸せな状況をすべてひっくり返すほどの状況に見舞われている。 それもいつか来た道である。それでも最後にLMMがこの歌でAGGを締めくくるのは、 マリラのように状況に押しつぶされるのではなく、 アンに自力で最悪の事態を抜け出させ、なおかつ今後の人生を望ましいものにしようという、 意志の力と強い自信を語らせるためだろう。 同時に、AGGを書いていた頃の、精神的に行き詰まったLMM自身に言い聞かせる言葉だったのだろう。
(LMMは [日記(E)1,p.358, Sept. 4, 1909] で、"Browning hurts me worse than any poet I have ever read -- and so I love him most." と言っており、Browningの作品の刺すように心に訴えてくる点を高く買っている。)
37章以前のアンなら、 [Annotated AGG,p.461] にあるように、周りの人に知らずに影響を与えながら歌を歌うPippaそのものと言ってよい。 だが、38章末で"Pippa's Song"を歌ったアンはPippaの立場でなく、歌を聞いて悔い改めた (「事」に見舞われたが、立ち直った?)Sebaldの立場であり、 受け身のPheneを理想的な人間にかえていこう(現状をただ受け入れて流されるのでなく、 変えていこう)とするJulesであり、(易きに流れず、悪い状況を克服しようと)戦うLuigiの立場であり、 結局最後にはPippa(グリーン・ゲイブルズあるいは自分の人生)を売り渡すのを拒んだMonsignor の立場である。 ("Pippa Passes"に関しては [Works of R. Browning,pp ix-xvi] を参照)。
アン、マシュー、マリラ、レイチェル、ダイアナ、アラン夫人が繰り返した 台詞"all right"( 単語帳のall rightの項 参照)は、 マシューの死後にもアンを励まし、最後のこの"All's right with the world!"に収束する。 マシューの死によって生じたかもしれないトマス家、ハモンド家と同様の悲惨を繰り返さず、 幾多の困難はあるけれど、 それでも人生を肯定してアグレッシブに生きていくことを選択したアン・シャーリー。 "Pippa Passes/Pippa's Song"は、戦うロマンチストであるアン・シャーリーに相応しい作品である。
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osawa
更新日: 2002/12/07